2012年 花月菴会総会

梯熱海温泉今年の花月菴会総会は、十月二十八日福島県磐梯熱海温泉にて開催されます。
東日本大震災から一年四ヶ月、一歩一歩復興へ歩みを進めている福島を応援いたしましょう。
 
 
 
 
ふるさとの歩み 
福島支部 伊藤翠皐
仙台が東北地方の中心になったのは近代のことで、それまでは会津がより重んじられていました。しかし、会津はきわめて狭い盆地に位置していたため近代の開発から取り残されました。
東北地方には、地理的な負の条件があまりにも多く、広大な面積を持つのに、その大部分が山地や高地であり、そして、南北に広く、東西に狭い。それでいながら、中央部の山地によって太平洋沿岸と日本海沿岸との交通が阻害されました。このような条件のために、戦国時代の東北地方は、多くの大名領に分立していました。
古代には、広い面積を持つ東北地方に、陸奥と出羽の二国しかおかれませんでした。朝廷は仙台平野を東北経営の拠点として、陸奥国府多賀城をおきました。
源頼朝は鎌倉幕府を開き、奥州を武力で征服しました。そのとき、彼は関東の御家人を奥州地方に配備し、彼らに所領を与えました。しかし、もとから奥州地方に土着していた豪族も多く、そのためこれ以降の東北地方には小勢力の抗争が繰り返されることになりました。建武新政のとき、朝廷は多賀城を再考し陸奥の将軍府をおきました。しかし、まもなく建武政権が倒れたために、将軍府は東北地方の全域の支配を形成できませんでした。その後、南朝側の北畠氏と足利一門とのあいだの多賀城争奪戦がくり広げられました。そして、南北朝の騒乱が収まったあと、足利一門の斯波(しば)氏が大崎探題となり陸奥国を治めることになりました。
戦国時代に蘆名(あしな)氏が押さえる会津が仙台平野にかわって、重要な拠点になっていきました。伊達正宗は東北統一の野望を抱き、天正十六年(一五八八)に蘆名氏を倒して会津を得ました。 しかし、彼はその二年後に豊臣秀吉に降らざるを得なくなりました。そのとき秀吉は伊達正宗の所領を岩手地方に移しました。このあと、秀吉は蒲生氏郷に会津をあたえて東北経営を命じたのです。(蒲生氏郷に、利休の死後、息子の少庵が預けられた話は有名である)
この度、福島についてという原稿のご依頼があり、いつの時代を書こうか、どこに焦点を当てようか、いろいろ思い悩み、まず最初に、あまり教科書には出てこない東北の歴史の流れを書かせていただきました。
ここで一首紹介いたします。郡山が陸奥国、安積郡だったころのものです。
神亀四年(七二四)聖武天皇が即位するとすぐ、地方の状況調査に葛城(かつらぎ)王(のちの橘諸兄)が片平の里に到着したとき、迎えが遅れたのか、少しお怒りになっていました。そのとき、采女(うねめ)が参上して歌を一首献上しました。
 

    安積山 影さえ見ゆる山の井の

           浅き心をわが思わなくに

 

(私たちは、あの安積山の影を映している山の井の清水池のように清らかで親しみを持って、お迎えしているのですよ。決してその場限りの浅い心でお迎えしているのではありません。)

 
これは万葉集に載っていて、中世の歌学界の第一人者といわれる紀貫之が、この「安積采女」の読んだ歌こそ歌の父であり、母と称してもいい、素晴らしい歌だと高い評価を与えています。この歌に詠まれた「安積山」「山の井」が歌枕として使われるようになったのです。あの松尾芭蕉も、この山へ関心を持って訪れました。
また、この句から、郡山の「安積采女伝説」が生まれました。安積の里山の井に住む春姫が、葛城王に見初められ奈良の都で帝につかえましたが、許嫁を恋しく思うあまり館を抜け出して家に戻ると、許嫁はこの世にはなく、悲しさのあまり身を投げたというお話です。奈良にも「采女伝説」がある事から郡山市は奈良市と姉妹都市です。
加えて、今回会場になります磐梯熱海温泉は今から約八百年前に発見されました。源頼朝の奥州平泉征伐後、安積郡を支配することになった伊東氏が生まれ育った伊豆国をしのんで文治五年に名付けたのだとか。また南北朝時代、建武のころ、京に住む公家の娘萩姫が不治の病に苦しんでいたところ「都を去る東北方、数えて五百本目の川岸に霊泉あり。それに浸かれば全快する」とお告げがありました。
姫はついに五百本目の川がある磐梯熱海温泉地内にたどり着きました。以来「美人をつくる名湯」として名を広めました。
福島県は広さと、そこに山脈が走り、気候が違うだけでなく、発展の仕方も様々です。今回は会場になります郡山の古代に焦点をあててみました。書きたいことがいろいろあり、乱文になりました事をお許しください。
それでは皆様のお越しを心よりお待ち申し上げます。