煎茶 花月菴会

花月菴の歴史

  • 高遊外売茶翁
  • 聞中浄復禅師
  • 花月菴鶴翁

1.花月菴鶴翁(流祖) 天明二(1782)年~嘉永元(1848)年

山本梅逸筆鶴翁像

花月菴の流祖・鶴翁は、天明二(1782)年十一月十七日、大坂島の内小西町に誕生。
本名は田中新右衛門、幼名は亀之助。
毛孔、素徳、倹徳、三種亭、其行などと号す。
生家の田中屋は代々酒造業を営んでおり、江戸でも多く販売されるなど大規模な商いを行っていた。
十六才で家業の田中屋を継ぎ、新右衛門を襲名。家業に励み、酒造法の研究に没頭する一方、酒造の上で最も大切な水質の研究に意を尽くし、後年茶事に心を極めるきっかけともなった。

田中屋の看板酒である「戎鯛」を意匠した看板

鶴翁の隣家には、煎茶中興の祖、売茶翁の弟子である小祇林尼とその姪で女医の三宅文昌が住んでいたこともあり、鶴翁は二人との親交を通じ青年の頃から茶を嗜む環境にあった。
また、文政年間(1818~1829)のころから黄檗山萬福寺の聞中禅師に師事し、陸羽、廬仝、売茶翁の茶風や禅学を学んだ。なお、聞中禅師は売茶翁、高芙蓉に師事し、伊藤若冲からは絵を学んだ人物とある。

鶴翁は売茶翁の遺風をこよなく慕っていたため、自身も売茶翁のように煎茶道具一切を一荷にし、身に鶴氅衣をつけ、頭に芙蓉巾をかぶり、京都の堂上家や紀州の藩邸に茶を献じ歩いた。また自らの邸内に 芽屋を建て、「花月菴」と号した。
造園家の秋里離島は「築山庭造傳」のなかで花月菴を次のように記述している。

「花月菴は東横堀の西岸の高楼なり。

淀川の支流は居ながら結ぶ、眺望の所は高津の台なり、生玉の森をかすみに浮び南には瓦屋橋を帯に、庭中は西湖の柳、宮城野の萩、枝をまじえ、神潜石、灵報石を置きて、煎茶の玉川庭の全なる庭格を備え、菴内には陸羽、廬仝の肖像に売茶翁の石像を安置し、毎月十六日は売茶忌をつとめ、諸方の雅人自ら集まり風流を営むに、又三月六日陸羽忌を訪ひ、としの新製、口を切って翁にこれをつとめざるうちは主人をはじめ、としの新製喫することをいましむ、煎茶の一風を起こすの一人也」

  • 秋里離島著「築山庭造傳」①
  • 秋里離島著「築山庭造傳」②
  • 秋里離島著「築山庭造傳」③

なお、文中の「西湖の柳」とあるのは、中国西湖の辺りに群生する文筥柳で、中国から鶴翁がわざわざ取り寄せたもの。また、「宮城野の萩」は仙洞御所から鶴翁が拝領したもの。

文政七(1824)年、鶴翁は「鶴翁茶売詞」を著わし、煎茶花月菴流の成立とその茶風について次のように記述している。

鶴翁著「鶴翁茶売詞」

「瓦炉の松風に浮世の塵を払ひ、急須の波濤に曲胘の夢をさまし、人士の垢を洗ひて、淡味を甘し清香を楽み、神仏の霊 場に一瓶を供することになむ
諸君子、時に来りて茶話清談し一碗をも啜りたまへ」

また、天保年間に刊行された「浪華風流繁盛記」には、鶴翁について次のような記述がある。

「賀寿田中氏、字は倹徳、花月菴鶴翁と号す。また松風清社、毛孔、三種亭、其行などの号あり。煎茶を好み、その法高遊外翁三世の伝統を継ぎ、一家を開き、諸国の門人多し」

鶴翁は自ら売茶翁三世と任じ、煎茶の精進に努めたため、その名声は畿内はもとより遠く江戸まで知られることとなる。その結果、花月菴には諸国の文人墨客が訪ね来るようになり、壮年時代には、田能村竹田、頼山陽、大窪詩佛、青木木米等と交友があったという記録が残っている。

その一方で、文化・文政年間(1804~1830)が大衆文化時代ともいわれたように、花月菴においても道具職、陶工、古手織り職、茶舗主などの職人や女性たちなどの一般町人の門弟を多く抱えることとなり、その結果多彩な煎茶人を排出した。大里有年が記した「浪華煎茶大人集」には売茶翁の流れをくむ二十二名の浪華の煎茶人が挙げられており、その内には花月菴鶴翁のほか五名の門弟が記載されている。

綾瀬棚の由来

天保三(1832)年、鶴翁は知友の招きに応じ茶具を携えて江戸に下った。五月二十九日、江戸郊外の綾瀬川に二、三の舟を浮べ、数十名規模の茶会を設けた。鶴翁はこの茶会に自身と親交ある国学者の平田篤胤、画家の谷文晃、漢詩人の大窪詩佛を招いている。
この時鶴翁は河岸の合歓の木の花を賞し、その小枝をもって茶棚に中棚を添え、「綾瀬棚」と命名した。これが現在は花月菴だけでなく煎茶各流でも広く使用されている綾瀬棚の起源である。またこの茶会では、鶴翁、平田篤胤、大窪詩佛がそれぞれ詩を残している。

  • あつま路にかほる木の芽を煮る時の あやに綾瀬に棚を造れる 花月菴鶴翁
  • むさし野の名におふ川のあやせ棚 綾にゆかしき主にもあるかな 平田篤胤
  • 青棠以爲架 相對忿可蠲 况有茶味冽 喚回合歓眠 大窪詩佛

また、鶴翁はこの江戸下りで十一代将軍徳川家斉に献茶する機会を得、茶具一式と「清玩規」を献上した。後年、公家の千種有功卿を介し、将軍家から献茶の嘉賞として蒔絵硯筥が下賜されることとなる。

西湖の水

翌天保四(1833)年八月十五日、鶴翁は長柄川に舟を浮かべ、煎茶愛好家や門弟を招き茶会を開いた。

この茶会は、鶴翁が「煎茶は元来、中国から来たものであるから中国西湖の水で煮なければ本当の茶味は出ないだろう。自分も煎茶道を持って生涯を送ったのであるからには、せめて命あるうちに西湖の水で茶を飲みたい」と思い、苦心し四方八方に手を尽くした末わざわざ中国から取り寄せた西湖の水を、限られた者だけで楽しみ飲むのではなく、広く浪華の人々にも飲んでもらおうと、青木木米が制作した大壷に入れ、これを長柄川に沈めるために開かれたものでる。鶴翁はこの時の感懐を次のように詠んでいる。

稀に得てうつせし西の湖のみづを長柄に汲めや風流士(みやびお)賀寿
鶴翁自筆「長柄茶会和歌詠草」

ちなみに鶴翁は和歌を香川景樹に学び、歌号を賀寿とした。

天保六(1835)年には、鶴翁は大坂の邦福寺(現統国寺)の境内に急須塚を建立し、その後、社中一同と共に破損した茶器を供養に努めた。
無心の器物に対し、次のような一首を詠んでいる。

をしと思ふ心名残りを投げ入れよ
後の迷いのはれんとすらむ

天保九(1838)年四月、鶴翁は、かねてから出入りしていた京都の一条忠香公のお召に応じて上京する。
その際、その身に芙蓉巾(心越禅師所用)、鶴氅衣(売茶翁所用)を装い一荷の茶具を荷い、庭前に進み茶歌をうたう伶人奏楽のうちに煎茶式を行った。忠香公をはじめ陪席の公卿諸公に茶を献じたところ、忠香公から「鶴翁の茶具を荷って逍遥する様はまさに鶴が舞うが如し」とのお言葉とともに、「鶴舞千年樹」の染筆が下賜され、次の歌に「鶴翁」の名前を賜ることとなった。

千世萬はなと月とに汲そへよつるの翁のかめをあつめて一条忠香公

同(1838)年九月、鶴翁は、一条公より再度のお召に応じ茶を献じたところ、「煎茶家元」の染筆「紫の巻」が下賜された。 これにより田中家が花月菴流家元となった起源である。

また、同月紀州、尾張両公よりも召されて献茶し、特に紀州公(従一位権大納言)より紋服と一位羽織を拝領した。これ以降この一位羽織が鶴氅衣に代わって花月菴流家元の正装となった。

煎茶といへるはいにしへよりもてはやせり今難波の花月菴はむかし遊外翁の伝へを得て茶どうの式をうかつ清雅にして艶なり天下の妙といふべしちゃを好めるものこの規短によるへし殊勝のあまり          鶴翁へ

茗にしなふ難波の人の汲茶にはよしとて花も月籠りて

さらに天保十一(1840)年十一月には、一条忠香公のお召により仙洞御所に参内する光栄に浴した。鶴翁は斎戒沐浴し伺候し、鷹司関白政通公、一条中納言実万卿、花山院右大将家厚卿、庭田宰相中条重春卿、久我中納言 建通公などが左右に並ぶ中、光格上皇に献茶式を行い、上皇の聖覧に供した。
この奉仕に対し、仙洞御所から鶴翁に御扇子、お褥、花瓶が下賜された。

仙洞御所から下賜された御扇子

その後も鶴翁は煎茶道に努め、より一層文人墨客や、一条公を初めとする月卿雲客との交わりを盛んに行った。

鶴翁は嘉永元(1848)年八月二十二日、六十七歳の生涯を閉じた。
京都東大谷に納骨され、墓碑は邦福禅寺(現統国寺)に建てられた。

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