花月菴の歴史

花月菴の歴史675-2

目次

  1. 花月菴鶴翁(流祖)
  2. 花月菴得翁(二代)
  3. 花月菴一窓(三代)
  4. 花月菴楓谷(四代)
  5. 花月菴青坡(五代)
  6. 花月菴香坡(六代)

 

1.花月菴鶴翁(流祖) 

  天明二(1782)年~嘉永元(1848)

鶴翁

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 
山本梅逸筆鶴翁像

 

花月菴の流祖・鶴翁は、天明二(1782)年十一月十七日、大坂島の内小西町に誕生。本名は田中新右衛門、幼名は亀之助。毛孔、素徳、倹徳、三種亭、其行などと号す。生家の田中屋は代々酒造業を営んでおり、江戸でも多く販売されるなど大規模な商いを行っていた。十六才で家業の田中屋を継ぎ、新右衛門を襲名。家業に励み、酒造法の研究に没頭する一方、酒造の上で最も大切な水質の研究に意を尽くし、後年茶事に心を極めるきっかけともなった。

戎鯛
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
田中屋の看板酒である「戎鯛」を意匠した看板

 

鶴翁の隣家には、煎茶中興の祖、売茶翁の弟子である小祇林尼とその姪で女医の三宅文昌が住んでいたこともあり、鶴翁は二人との親交を通じ青年の頃から茶を嗜む環境にあった。また、文政年間(1818~1829)のころから黄檗山萬福寺の聞中禅師に師事し、陸羽、廬仝、売茶翁の茶風や禅学を学んだ。なお、聞中禅師は売茶翁、高芙蓉に師事し(蒹葭堂日記)、伊藤若冲からは絵を学んだ人物とある。

鶴翁は売茶翁の遺風をこよなく慕っていたため、自身も売茶翁のように煎茶道具一切を一荷にし、身に鶴氅衣をつけ、頭に芙蓉巾をかぶり、京都の堂上家や紀州の藩邸に茶を献じ歩いた。また自らの邸内に芽屋を建て、「花月菴」と号した。

造園家の秋里離島は「築山庭造傳」のなかで花月菴を次のように記述している。

「花月菴は東横堀の西岸の高楼なり。淀川の支流は居ながら結ぶ、眺望の所は高津の台なり、生玉の森をかすみに浮び南には瓦屋橋を帯に、庭中は西湖の柳、宮城野の萩、枝をまじえ、神潜石、灵報石を置きて、煎茶の玉川庭の全なる庭格を備え、菴内には陸羽、廬仝の肖像に売茶翁の石像を安置し、毎月十六日は売茶忌をつとめ、諸方の雅人自ら集まり風流を営むに、又三月六日陸羽忌を訪ひ、としの新製、口を切って翁にこれをつとめざるうちは主人をはじめ、としの新製喫することをいましむ、煎茶の一風を起こすの一人也」

 

築山庭造傳×2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秋里離島著「築山庭造傳」①

 

築山庭造傳1-2-300
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秋里離島著「築山庭造傳」② 

 

築山庭造傳3-4-300
 
 
 
 
 
 
 
 
 
秋里離島著「築山庭造傳」③

 

なお、文中の「西湖の柳」とあるのは、中国西湖の辺りに群生する文筥柳で、中国から鶴翁がわざわざ取り寄せたもの。また、「宮城野の萩」は仙洞御所から鶴翁が拝領したもの。

文政七(1824)年、鶴翁は「鶴翁茶売詞」を著わし、煎茶花月菴流の成立とその茶風について次のように記述している。

鶴翁茶売詞500 
 
 
 
 
 
 
 
 
鶴翁著「鶴翁茶売詞」

 

 瓦炉の松風に浮世の塵を払ひ、急須の波濤に曲胘の夢をさまし、人士の垢を洗ひて、淡味を甘し清香を楽み、神仏の霊 場に一瓶を供することになむ 諸君子、時に来りて茶話清談し一碗をも啜りたまへ」

 

また、天保年間に刊行された「浪華風流繁盛記」には、鶴翁について次のような記述がある。

 

「賀寿田中氏、字は倹徳、花月菴鶴翁と号す。また松風清社、毛孔、三種亭、其行などの号あり。煎茶を好み、その法高遊外翁三世の伝統を継ぎ、一家を開き、諸国の門人多し」

 

鶴翁は自ら売茶翁三世と任じ、煎茶の精進に努めたため、その名声は畿内はもとより遠く江戸まで知られることとなる。その結果、花月菴には諸国の文人墨客が訪ね来るようになり、壮年時代には、田能村竹田、頼山陽、大窪詩佛、青木木米等と交友があったという記録が残っている。

その一方で、文化・文政年間(1804~1830)が大衆文化時代ともいわれたように、花月菴においても道具職、陶工、古手織り職、茶舗主などの職人や女性たちなどの一般町人の門弟を多く抱えることとなり、その結果多彩な煎茶人を排出した。大里有年が記した「浪華煎茶大人集」には売茶翁の流れをくむ二十二名の浪華の煎茶人が挙げられており、その内には花月菴鶴翁のほか五名の門弟が記載されている。

天保三(1832)年、鶴翁は知友の招きに応じ茶具を携えて江戸に下った。五月二十九日、江戸郊外の綾瀬川に二、三の舟を浮べ、数十名規模の茶会を設けた。鶴翁はこの茶会に自身と親交ある国学者の平田篤胤、画家の谷文晃、漢詩人の大窪詩佛を招いている。この時鶴翁は河岸の合歓の木の花を賞し、その小枝をもって茶棚に中棚を添え、「綾瀬棚」と命名した。これが現在は花月菴だけでなく煎茶各流でも広く使用されている綾瀬棚の起源である。またこの茶会では、鶴翁、平田篤胤、大窪詩佛がそれぞれ詩を残している。

綾瀬茶会 賀寿150

 

 あつま路にかほる木の芽を煮る時の
 あやに綾瀬に棚を造れる                           
            花月菴鶴翁
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 綾瀬茶会 平田篤胤 

 むさし野の名におふ川のあやせ棚              

 綾にゆかしき主にもあるかな                 
            平田篤胤

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

綾瀬茶会 大窪詩佛

 
 青棠以爲架 相對忿可蠲
 况有茶味冽 喚回合歓眠          
        大窪詩佛
 
 
 
 
 

 

また、鶴翁はこの江戸下りで十一代将軍徳川家斉に献茶する機会を得、茶具一式と「清玩規」を献上した。後年、公家の千種有功卿を介し、将軍家から献茶の嘉賞として蒔絵硯筥が下賜されることとなる。

翌天保四(1833)年八月十五日、鶴翁は長柄川に舟を浮かべ、煎茶愛好家や門弟を招き茶会を開いた。この茶会は、鶴翁が「煎茶は元来、中国から来たものであるから中国西湖の水で煮なければ本当の茶味は出ないだろう。自分も煎茶道を持って生涯を送ったのであるからには、せめて命あるうちに西湖の水で茶を飲みたい」と思い、苦心し四方八方に手を尽くした末わざわざ中国から取り寄せた西湖の水を、限られた者だけで楽しみ飲むのではなく、広く浪華の人々にも飲んでもらおうと、青木木米が制作した大壷に入れ、これを長柄川に沈めるために開かれたものでる。鶴翁はこの時の感懐を次のように詠んでいる。

 

17.長柄茶会和歌
 
 稀に得てうつせし 西の湖のみづを     
 長柄に汲めや風流士(みやびお)
               賀寿
 
 
 
 
 
 
鶴翁自筆「長柄茶会和歌詠草
 
ちなみに鶴翁は和歌を香川景樹に学び、歌号を賀寿とした。

 

天保六(1835)年には、鶴翁は大坂の邦福寺(現統国寺)の境内に急須塚を建立し、その後、社中一同と共に破損した茶器を供養に努めた。無心の器物に対し、次のような一首を詠んでいる。

 

をしと思ふ心名残りを投げ入れよ
後の迷いのはれんとすらむ
 
 

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 天保九(1838)年四月、鶴翁は、かねてから出入りしていた京都の一条忠香公のお召に応じて上京する。その際、その身に芙蓉巾(心越禅師所用)、鶴氅衣(売茶翁所用)を装い一荷の茶具を荷い、庭前に進み茶歌をうたう伶人奏楽のうちに煎茶式を行った。忠香公をはじめ陪席の公卿諸公に茶を献じたところ、忠香公から「鶴翁の茶具を荷って逍遥する様はまさに鶴が舞うが如し」とのお言葉とともに、「鶴舞千年樹」の染筆が下賜され、次の歌に「鶴翁」の名前を賜ることとなった。

 
千世萬はなと月とに汲そへよ
つるの翁のかめをあつめて
          一条忠香公
 

鶴舞千年樹

 

 

         

           

     

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(1838)年九月、鶴翁は、一条公より再度のお召に応じ茶を献じたところ、「煎茶家元」の染筆「紫の巻」が下賜された。 これにより田中家が花月菴流家元となった起源である。

また、同月紀州、尾張両公よりも召されて献茶し、特に紀州公(従一位権大納言)より紋服と一位羽織を拝領した。これ以降この一位羽織が鶴氅衣に代わって花月菴流家元の正装となった。

 

紫の巻1

  

 煎茶といへるはいにしへよりもてはやせり
 今難波の花月菴はむかし遊外翁の伝へを
 得て茶どうの式をうかつ清雅にして艶なり
 天下の妙といふべしちゃを好めるものこの
 規短によるへし殊勝のあまり          鶴翁へ
 
 茗にしなふ難波の人の汲茶には
 よしとて花も月籠りて

 

 

紫の巻2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さらに天保十一(1840)年十一月には、一条忠香公のお召により仙洞御所に参内する光栄に浴した。鶴翁は斎戒沐浴し伺候し、鷹司関白政通公、一条中納言実万卿、花山院右大将家厚卿、庭田宰相中条重春卿、久我中納言建通公などが左右に並ぶ中、光格上皇に献茶式を行い、上皇の聖覧に供した。この奉仕に対し、仙洞御所から鶴翁に御扇子、お褥、花瓶が下賜された。
扇子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
仙洞御所から下賜された御扇子

 

その後も鶴翁は煎茶道に努め、より一層文人墨客や、一条公を初めとする月卿雲客との交わりを盛んに行った。

鶴翁は嘉永元(1848)年八月二十二日、六十七歳の生涯を閉じた。京都東大谷に納骨され、墓碑は邦福禅寺(現統国寺)に建てられた。

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2.花月菴得翁(二代) 

  文化二(1805)明治十八(1885)

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得翁の書

 

鶴翁には男子がなく、一人娘である義子の婿養子として摂津国師島上郡田中村(現在大阪府茨木市島本町)の豪農西田伊右衛門の長男源次郎を迎え入れた。その後鶴翁は源次郎に田中屋を継がせ、新右衛門(後の得翁)を襲名させた。新右衛門は、天保の大飢饉による九年間の減造令を始め、幕末まで断続的な減造令を命じられるなど、酒造業にとって最も厳しいさ中に家督を継ぐこととなった。しかし、新右衛門は大坂の酒造仲間(連合)の筆頭大行司として酒造業界の再建に尽力したほか、小西町年寄として、明治維新の混乱の中であったにもかかわらず、明治二(1869)年、九之助橋の建て替えを行うなど、酒造業や町の発展に尽くした。

新右衛門自身は、義父鶴翁による風流韻事、煎茶三昧のあり様を見て、養子の身であることや煎茶に没頭することで家業が傾くことを恐れ、義父鶴翁が没した後は、その一切の茶道具類を土蔵に封印し、もっぱら家業である酒造業に励んだ。また新右衛門はごく地味な人柄で、煎茶道の家元を高貴から許されながら先代鶴翁のように貴紳に近づくことなく、鶴翁から伝授された煎茶法を次男楢治郎(のちの三代一窓)やその子女の教育に用いたほかは一切門人をとらなかった。

その一方で、文久三(1863)年に田能村竹田の養子の直入が企画した「青湾碑建立茶会」と「売茶翁百年回忌茶会」に対しては積極的に協力した。新右衛門は五月の「青湾碑茶会」には売茶翁の袈裟、売茶翁所用の茶器を二点、岡田半江の茶具図を出展している。また売茶翁百年回忌茶会」には第一席として青湾に舟を浮かべて茶会を開き、三名の花月菴門人がその茗主を務めた。

晩年に至り、新右衛門は二男のうち長男久治郎に酒造業田中屋を継がせ、新右衛門を襲名させた。そして、次男楢治郎(後の三代一窓)を連れ、天王寺の控え家(現在天王寺区上本町花月菴家元邸)に移り、隠居し「得翁」と称した。これにより、得翁の時代に長男(本家)は酒造業、次男(分家)は煎茶道をもって一家を成すこととなる。この時、得翁は田中家に伝わる書画骨董家具をすべて本・分家に二分した為、後の島の内大火により、本家が所有する名器は消失・四散してしまう。

明治十八(1885)年、得翁は七十七年の生涯を閉じた。法名は釈浄敬。墓は天王寺の一心寺の隣、専修院の田中家代々の墓地にある。

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3.花月菴一窓(三代) 

  弘化二(1846)大正十一(1922)

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一窓は、初代鶴翁の孫として弘化二(1845)年に次男として誕生。字は広貞、通称楢次郎。後に隠居して新吾と改め、親交の厚かった鳥尾子爵の命名により、晩年は「一窓」と号した。後述の明治天皇への献茶と茶の同好会である「十八会」の煎茶指南となったことにより、煎茶花月菴流が躍進する大きな原動力となった。

楢次郎は父得翁の後を受け家業の質屋を継いでいたが、商売は番頭に任せ、もっぱら祖父鶴翁の残した煎茶道のことに苦心、研究を怠らず、その名声は早くから高かった。また、若くして古美術鑑賞に秀で、鑑定家として世に通っていただけではなく、手先も器用で、専門の陶工に劣らぬ技法を習得し、自ら茶器を作るほどであった。

明治十(1877)年二月二十六日、明治天皇は京都及び大和地方御巡幸のみぎり、大阪府庁内で行われた京都・大阪間の鉄道開通式に御臨席になり、一窓は大阪府知事渡辺昇の依頼により陛下の御前で献茶することとなった。献茶式には有栖川宮親王殿下、三条実美太政大臣、木戸孝允内閣顧問など政府高官も陪席した。当時、無位無官の者が天皇の御前に出ることは破格のことであった。一窓は茶具一式を新調。身に燕尾服を着用し、花月菴流煎茶作法により献茶の儀を奉仕した。また明治二十(1887)年二月十五日には、明治天皇が大阪に御行幸の際、一窓が中国の珍木「吉利珠樹」を献上したことにより、同年十月、宮内省から白絹一匹が下賜された。

 

明治陛下一窓献茶図500
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
明治天皇への献茶の図

 

 

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関係者による寄せ書き

 

一窓の名声を高めたもう一つの出来事は、茶の同好会「十八会」の指南役となったことである。「十八会」は、明治三十五(1902)年二月、大阪財界などの有力者によって設立された。毎月十八日に開かれたため、この名がある。煎茶指南は花月菴一窓、抹茶は狩野宗朴があたった。朝日新聞の創業者村山竜平、十五代住友吉左衛門、初代大阪市長の田村太兵衛など約二十名が参加した。

財界人のみならず、一窓は松方正義侯爵(首相)、土方久元伯爵(宮内大臣)、鳥尾小弥太子爵(枢密顧問官)などとも親交があり、東京においても花月菴門人がひろがっていった。読売新聞によれば、大正末年期には毎年の春、上野で秀月社主催で花月菴茶会が開かれたことを伝えている。

大正14年3月27日 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 読売新聞
 大正14(1925)年3月27日

 

大正15年4月6日朝刊7面
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 読売新聞
 大正15(1926)年4月6日

 

大正十三(1924)年売茶翁生誕二百五十年にあたり、一窓は「売茶翁偈語」と「売茶翁茶器図」を出版する準備をしていが、大正十一(1922)年六月二日、七十八歳で亡くなった。

遺骨は京都西大谷に納めれた。西本願寺法主は一窓の法名を釈浄海とし、その投機偈を次のように記した。

 

 花月菴主  事々即休
 盈虚開落  吾家風流

 

遺言によって墓は作らず、この偈文を鳥尾小弥太子爵が揮毫したものを命日に祭り、香葉茶葉を供えるのを花月菴のならわしとしている。   

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4.花月菴楓谷(四代) 

  明治七(1874)昭和十四(1938)

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楓谷は明治七(1874)年に一窓の長男として誕生。幼名は雄蔵。大正十一(1922)年、四十八歳で家元を継承し、まず父一窓の遺業である売茶翁生誕二百五十年の記念出版を行った。大正十三(1924)年に「売茶翁茶器図」、翌年に「売茶翁偈語」、昭和二(1926)年に「花月菴鶴翁小傳」を刊行した。

 

 

売茶翁茶器図×2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「売茶翁茶器図」

 

花月菴鶴翁小傳
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「花月菴鶴翁小傳」

 

また、同じく大正十三(1924)年十一月には、鶴翁が建立した急須塚(在邦福禅寺)を改修し、その茶会の参加者に「売茶翁茶器図」を贈った。さらに楓谷は昭和四(1929)年に「花月菴秘録煎茶法式」を著した。その著書の中で、楓谷は花月菴流煎茶用具並びに煎茶式作法、三代の花月菴一窓傳を記述している。

  

  

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「煎茶清玩規」(左) 楓谷著「煎茶方式」(右)

 

 

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「煎茶清玩規」(一部)

 

楓谷は著作に努める一方で、花月菴流煎茶指導道場として「松風清社」を設立し、煎茶道の研究に努めた。また、点茶の方法や茶具についても時代に適合するよう工夫を施した。

また、花月菴流の煎茶道を指導する傍ら、地区から選ばれて天王寺区議会議員や学務委員などの職を歴任し、地域の発展に努めた。また、第一次世界大戦中自宅の一角に特定郵便局を開設し、局長となって地区民の郵便事務の便を図った。

昭和十四(1939)年十月六日、六十六歳で亡くなった。法名は釈浄猷。遺命により墓所は作られていない。

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5.花月菴青坡(五代) 

  明治四十(1907)~昭和五十四(1979)

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青坡は、明治四十(1907)年、四代楓谷の長男として誕生。十歳より祖父一窓、父楓谷につき、厳しい修業を行った。昭和十四(1939)年に五代家元を継いだが、世相は第二次世界大戦中であり、戦時体制一色となっていたため従軍し、陸軍工兵大尉で終戦を迎えた。

青坡は戦後の荒廃の中で花月菴流の再興に努め、全国各地に支部を設立した。また、戦後一般客を招いて行われるようになった京都建仁寺の四頭茶会において、表千家、裏千家と共に花月菴流が副席を務めるようになった。

昭和四十八(1973)年に「煎茶花月菴」(主婦の友社)を公表。また「煎茶の掛けもの」、「花月菴の煎茶茶事」、「煎茶道具」、「売茶翁の墨跡」(ともに主婦の友社)も著した。

昭和五十(1975)年には、売茶翁生誕三百年を記念して、「売茶翁集成」(主婦の友社)が刊行された。青坡は同著の編集委員を務めるとともに、売茶翁に関する様々な資料を提供した。

昭和五十四(1979)年、七十二歳で亡くなった。

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6.花月菴香坡(六代)

  昭和三十二(1957)

 香坡献茶式

 

 

 

 

 

 

香坡は、昭和三十二(1957)年、五代青坡の長男として誕生。昭和五十七(1982)年に六代家元を継承した。平成七(1995)年に「煎茶花月菴会」を設立。この会は煎茶花月菴の門弟と社中を正会員とし、煎茶道の学習、会員相互の親睦、資料の収集と提供、文化交流など目的に活動している。総会は毎年一回、全国の花月菴流支部の所在地で行っている。

香坡は、昭和六十二(1987)年に「田能村竹田と花月菴鶴翁との出会い」を刊行した。この著書の中で、文政六(1823)年以来終生続いた鶴翁と竹田の交流について記している。竹田の日記には花月菴への来訪、鶴翁と小祇林尼との交流、売茶翁所有の茶具が花月菴所蔵となった経緯など、新しい史実が紹介されている。さらに、平成十六(2004)年には、「木米兼葭堂、煎茶花月菴」を著わした。

煎茶を知らない若い世代へ花月菴流を伝えるべく、点茶の方法や茶具についても、時代に適合するよう工夫を施している。また、日本国内のみならず、フランスをはじめ、海外においても煎茶の普及に努めている。

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