煎茶 花月菴会

田能村竹田と花月菴鶴翁の出会い 花月菴流大阪支部 酒井慶治

大分県立芸術会館所蔵 竹田日記にみる 田能村竹田と花月菴鶴翁の出会い

花月菴流大阪支部 酒井 慶治

 能村のむら竹田ちくでんは、安永6年(丁酉・1777)6月10日、豊後国直入なおいり竹田たけた村(現在の大分県竹田市殿町)に生れました。(昭和29年に二つの町と八つの村が合併して市となり、現在は人口3万人という田園都市です)
 竹田の先祖は摂津国河辺郡田能村の領主でその子孫が豊後の岡藩、中川侯(七万石の外様大名)の代々の藩医、その次男で医者を継ぐのですが、経学、詩画を好み22才の時に医者になることをやめ、藩校由学館で学問を専攻し、唐橋君山が総裁として編集していた「豊後国志」の御用掛を命じられて従事しています。やがてこの「豊後国志」を幕府に納める準備のために江戸に向かう、その途中、竹田が25歳の享和元年(1801)6月4日に大坂の木村蒹葭堂(66才)を鍋屋雅介という人に連れられて訪ねたことが「蒹葭堂日記」に記載されています。この鍋屋雅介は、豊後日田の旧家で、雪舟を学んだ文人 森五石の長男の森春樹(号は仁里。竹田が「豊後国志」の採録調査のため日田を訪ねた頃からの知合い)であります。
 竹田はこの時に、蒹葭堂で明の仇英の絵を見て、将来における深い印象をうけたこと、また、ある人から四天王寺の塔に登ることを誘われたのをふりきって蒹葭堂を訪ね、そして翌年江戸からの帰りに大坂にきた時には、木村蒹葭堂は亡くなっており、天王寺の塔も焼けてなくなっていたことを「山中人饒舌」の中に記しています。
 文化2年(29才)に京都遊学の許可を受け、途中、博多・長崎・熊本・小倉・下関を経て、それぞれの地で文人と交流、5月に大坂、8月には京都、それから文化4年(31才)まで、約二年半を京坂の地に滞在し、この間、村瀬栲亭の門に入り、また中島棕隠・浦上玉堂・岡田米山人・上田秋成等と交遊します。文化8年(35才)再び京都・大坂に遊び、途中、備後に菅茶山を訪ね、大坂では頼山陽、紀州では野呂介石に会い、半年で帰国。その年の冬に岡藩の領内で百姓一揆が起ります。「建言書」を藩主に上申するのですが認められず、結局文化10年(37才)に致仕して詩画三昧の生活に入ります。文政元年に頼山陽が豊後竹田に来遊。文政5年には杵築に遊び「黄築紀行」を書く。
 文政6年(47才)に、長男の太一(如仙)と、愛弟子・高橋草坪をつれて大坂へ、頼山陽・末広雲華・浦上春琴(玉堂の子)、青木木米・岡田半江等多くの文人と交遊し、大坂・京都に一年ほど滞在しています。このあとの文政9年には長崎に遊び、中国から輸入された書画や、煎茶のことなども研究を続け、文政10年には熊本・鹿児島、文政11年以後は度々大坂へ参ります。天保5年(58才)大坂で大塩平八郎とも会っています。篠崎小竹に入門させるつもりで連れてきた弟子の直入を大塩平八郎の洗心塾に入門させています。翌天保6年に再び大坂、7月に近郊の吹田村の代官友人の井内左門(径雨)を訪ね、滞在中に暑気当りを起し、さらに大雨にあって熱を出し、肺炎になります。中之島の岡藩大坂蔵屋敷に帰りますが、治療の甲斐なく、ついに8月29日に亡くなりました。59才でした。(1777~1835)
 田能村竹田の墓は、地下鉄(谷町線)の四天王寺駅の西、朽縄坂の上にあたる夕陽ケ丘の淨春寺にあります。友人の篠崎小竹の「竹田先生墓」の五文字が刻まれています。これと同じ形のものが、郷里の豊後竹田にも建てられ、そこには遺髪が納められています。
 大正13年2月11日の紀元節に竹田に従五位が追贈され、竹田百年祭の記念碑(贈從五位畫聖田能村竹田先生之碑)には竹田の業績が刻まれています。かなり大きなもので、淨春寺に入るとすぐ左側にそびえています。
 最近、黒川洋一先生が江戸時代の日本人の漢詩のみなおしをして、菅茶山やこの田能村竹田の詩を大いに称揚されています。
 竹田は文人煎茶人としても著名ですし、また「山中人饒舌」、「竹田荘師友画録」、「屠赤瑣瑣録」資料① などの隨筆(漢文)や興味の尽きない著作がたくさんあります。これに対して竹田の研究書としては、昭和40年、岩波の日本古典文学大系の「近世隨想集」に麻生磯次先生校注の「山中人饒舌」があります。昭和50年、笠間選書の竹谷長二郎先生の「竹田画論―山中人饒舌訳解」、昭和52年に「竹田荘師友画録 訳解」、昭和56年に明治書院から「文人畫家 田能村竹田」(「 自画題語 」訳解を中心に)が出ています。
 「竹田荘師友画録」には学問、芸術によって結ばれた墨縁を中心とした105名の文人たちの人間像がつづられているのですが、この中で青木木米のことを口を極めてほめたたえ、頼山陽と共に自分の両臂にたとえています。
 また、民友社から昭和4年に発行された木崎好尚先生の「大風流田能村竹田」、国文名著刊行会発行の「田能村竹田全集」、便利堂から昭和10年に発行された「竹田名蹟大図誌」は外狩素心庵編纂で豪華本、これが昭和51年に縮刷されて国書刊行会から復刊されています。
 ほかにも単行本や画集などが沢山出版されていて、最近も大阪春秋社発行の「大阪春秋」という雑誌の48,49号に「田能村竹田と上方」と題して宮本又次先生も書いておられます。
 ところで、昨年11月1日から3日まで、大分県竹田市立歴史資料館において「文人書画展」が催されました。竹田商工会議所青年部会の企画で、昭和49年から行われているもので、名誉市民の草刈樵谷先生(田近竹邨のお弟子で90余才の南画家)が指導されて、県内の所蔵品を中心に展観されています。(昭和57年には大分県立芸術会館において、開館5周年を記念して「田能村竹田展」が開催されました。)昨年の第12回文人書画展の目録に竹田の日記の写真が掲載されています、その中に田能村竹田が花月菴をはじめて訪ねたときの記事を見出したのであります。
 この日記は、2月1日からはじまって7月まで、竹田が旅行中に持ち歩いて折々に書き付けた手控えのようなものであります。しかも花月菴での聞き書きも記されています。体裁は半紙本、中味22枚の袋とじ、勿論毛筆で書かれていて、その半分が日記(漢文)、あとは詩の原稿や聞き書き(ひらかな、カタカナまじり)などで、すらすらとは読めませんが、判読いたしました中から花月菴にかかわりの部分をとりあげてみます。

(大分県立芸術会館蔵・竹田の日記から)①~⑤

(原文)
① 廿七日 晴 朝訪同斎子同過(竹坡不在遂至)自安寺僧置酒観研数枚帰路過花月主嗜茶飲奉賣茶翁像祠焉為予陳翁之遺物数種説其遺事甚悉置酒煎茶閑話簿暮方帰

(訓読)
 廿七日 晴 あさ同斎子(河合同斎)をとも竹坡ちくは(西竹坡)によぎる。らずつひに自安寺にいたる。僧に置酒ちしゆしてけん(硯)数枚をる。帰路花月よぎる。亭主茶飲をたしなみ賣茶翁の像を奉じてまつる。ために翁の遺物数種をつらね其の遺事いじいて甚だつくす。置酒煎茶かんはくまさに帰る。
② 賣茶翁の弟子に三人の兄弟あり、兄を古道といふ、黄檗山の蔵主となる、次を無参といふ、一生瓢然無住にして死ス、末ハ女子にて尼となる、亦観ル所あり観掌といふ、茶臼山の側小祗林に住す、大坂府の醫人三宅文昌ハこの三人の肉姪にて今年七十四五歳斗なり、文昌の左隣に田中屋あり茶を嗜む、予此人と今年三月廿日始て相知る、其花月亭ニテ茶ヲ喫ス
小祗林に賣茶翁の九条褐色の布袈裟ヲ蔵ス、其外掛物三幅、硯箱壱ツ、鉄槌壱ツを蔵ス。三宅文昌の宅に翁の茶ヲ賣ル店の旗ヲ蔵ス、、清風の二字(写真)を書す、亦掛物六七幅斗あり。田中屋ニ翁の掛物三幅並ニ茶壺(写真)三、古銅風炉及雑具六、七種ヲ蔵す、多ク小祗林ヨリ出ツ、只古銅風炉(写真)ハ古道蔵主より伝来すといふ。田中屋ニ翁の遺像(写真)あり、秋平なる者二ツを作る其一なり、秋平ハ本ハ 人今の松風亭の父なり、又魯寮大潮の作、翁の賛語ヲ蔵ス、又若冲畫翁像アリ、大典賛ス。田中屋ニ大流芳の畫山水一幅ヲ蔵ス、流芳別称岩田芳、又号岩四川。流芳又号湾、家ヲ網島(大枝流芳の茶室は現在の都島区網島、藤田美術館や太閤園のあるあたり、桜の宮に青湾茶寮を営みました)ニトス、此処の水清潔甘烈浪華第一とす、故に湾と号ス

以上三月廿華月亭・・・ 席上ノ話ヲ記ス

 とあります。花月菴資料②は華月亭ともいったのでしょうか。田中屋花月菴に所蔵するものを見せて貰って鶴翁から賣茶翁の遺事を詳しく聞いて竹田は記録しています。
 伊藤若冲の画いた賣茶翁の像(写真)、大典が画賛を書いた軸を見せて貰ったのでしょうか。
 それから賣茶翁の弟子の小祗林尼、この人は天保6年、鶴翁が師と仰いだ聞中の七周忌法要の茶会を天王寺の邦福禅寺(今、茶臼山の邦福寺[現 統国寺]花月菴鶴翁の墓と急須塚のあるお寺)で催した際に花月菴門葉が担当、二席目を小祗林尼が亭主をしていますから花月菴にもかかわりのある人だと思います。
 大枝流芳(わが国で最も古い煎茶書、青湾茶話を宝暦6年(1756)に出している)は青湾という号で知られています。昭和53年4月23日、桜宮で青湾碑復建記念の「青湾の茶会」が催されました際に、先代家元青坡先生は大枝流芳の山水の軸をかけられました。それが竹田が見たという大流芳の山水の軸でありましょうか。その伝来、茶会の趣向に対する見識と花月菴の伝来品の尊さに頭の下がる思いです。(この青湾の碑[大阪市のホームページ]は、文久2年(1862)に田能村直入が百幅の賣茶翁像を画き、その費用にあてつくられたものです。4月23日と後の青湾の茶会が7月に催されています。)
 さて、竹田の日記②には「今年三月廿日始て相知る 其花月ニテ茶ヲ喫ス」とある部分には日付の箇所が一字空けてあります。また「月亭席上ノ話ヲ記ス」とあるところも三月廿日と一字空白になっていますが、①の日記の部分に「二十七日…… 花月主嗜茶飲……煎茶閑話、薄暮方ニ帰ル」とありますから、空白の日付は二十日であることがわかります。
 竹田が花月菴を始めて訪ねたのはこれで3月27日であったということを断定できます。

 それではいつの3月27日であるかということになります。竹田はその日の朝に河合同斎という人(未詳)を訪ねています。これがひとつの鍵になります。
 ところで昭和46年に中央公論社から出ました森銑三著作集の十巻に歌人の「大熊言足紀行」が紹介されています。それは文政6年2月11日、大熊言足が博多を発って大坂・京都・大和・伊勢を旅行して6月25日に帰郷するまでの日記ですが、
その中に

「五月七日は大坂に在って、竹田と会した、河合同斎にゆき、其刀自阿琴をともなひて、竹田翁の旅寓をとふ、翁老狐と字したる骨董家をともなひ、こよひ京にのぼるとて、其支度するをりなれば、筆をとることはかたく辞せられる、されどしひてこふままに其とりちらしたるなかをしわけて、つくばひながら片紙二ひらかきてあたへらる」

 という部分があります。
 翁老狐と字したる骨董家というのは、竹田と同郷の人で綿屋文作、芸香堂です。この竹田の日記にも随所に出てまいります。竹田が大坂にいたときは綿屋文作の住居に寄寓しています。
 竹田が上京する旅仕度をしているところへ大熊言足がきて何か書いてほしいという、荷物のすき間でつくばいながら書いている竹田の姿が目に見えるようです。大熊言足の日記の記述は竹田の日記で裏付けをとることができます。(竹田は文政6年5月8日、大坂から舟で京へ向かっています)
 さて、竹田の日記の①によりますと3月27日の朝、河合同斎を訪ねています。ともぎるというのは一諸に行ったという意味なら、竹田は河合同斎と一諸に西横堀の西竹坡(蒹葭堂門下の画家)を訪ねたが不在であった、それから自安寺(当時は千日前にあった日蓮宗の寺で‶千日前の妙見さん〟と親しまれた。昭和42年の都市計画で強制立退きになり、道頓堀の堺筋の東へ移った)へ行き、硯を何枚か見たあと東横堀の西岸九ノ助橋の南詰にあった花月菴を訪ね、賣茶翁の遺品数種を見て、その伝来などを詳しく聞いたり、煎茶をたのしんで夕ぐれまでいたのです。
 竹田が花月菴を始めて訪ねたのは、この日記のほかの項目、たとえば3月5日に神辺の菅茶山を訪ねています。(「秋声館集」の評閲をうけている)
 これらの裏付けからも文政6年(1823)の日記であることがわかります。
 今から164年前の文政6年3月27日、田能村竹田は河合同斎の案内で花月菴を訪ねたのであろうというのが私の推理でありますが、さて如何でしょうか。

 次に記録の部分に
③ 四月十六日 田中屋ヲ訪フ(花月庵ナリ九ノ助橋南詰南ニ入ル処)席上一客云フ、今日四ツ比(午前十時頃)尾崎雅嘉俊助(大坂梶木町に住む国学者、和漢群書作者目録の編者、文政十年七十三才没)中風発ス、右身不仁ナリ、今朝咏新樹歌アリ曰
 アサナアサナ手洗ノ水ニ影ミヘテ
  若樹モ日ニ新ナリケリ
又席上ニ京客アリ三品氏ト云(三品伊賀守金道ノ族小石玄端ノ近隣)其人曰、一京人西ノ洞院時慶卿ノ日記ヲ蔵ス、慶長ヨリ寛永ニ及フ、処々残闕アリ、所存十九巻ナリ(時慶郷ノ孫時名邸アリ此邸ヲ風月ト称ス、其子放蕩シテ多事日記ヲ売却ス、此日記モ其内ナリト云フ)三品氏云フ、慶元の間、伊達政宗、加藤清正、在京中ハ此人ノ家ニ宿セシトゾ、書翰数通アリ。又三品氏帳面ノ控ニ大名衆ヨリ衣服ノ注文ニ金係ノ入リシハ三百目、常ノ服ハ百五十目モシ、此価ヲ過レハ公儀ニ訟ヘ出ツベシトナリ今ハ常人の衣類モ三百目四百目ハ皆費ユ、古ハ質素ノ事トイヘリ( 以上花月庵席上ノ話)
 とあります。

 このように花月菴の茶席での話を書きとめていて、その時々の話題にも興味深いものがあります。

 別のところに
④ 十六日 晴 午前 森竹窓翁来訪 過田中氏喫茶 京人三品氏在坐
 とありますから、竹田は花月菴で三品氏の話を聞いたのは4月16日のであったことがわかります。
  花月菴では「毎月十六日は賣茶忌をつとめ、諸方の雅人自ら集まり風流を営むに、主人ひねもす茶を煎じ給ふこと月並に怠ることなし」という、その席に竹田や京都の三品氏たちがいろいろ、話をして楽しんだ、まさに文人のサロンの様子がうかがえます。

 日記の部分に

⑤  十八日 雨 持明院主過訪 華月亭主過訪

 と記されています。
 竹田は3月14日に京町堀三町加賀屋藤二郎の内、綿文、芸香堂宅に寄寓しています。4月3日には紀国橋(京町堀川、京町堀四丁目橋)の北に芸香堂が移居、竹田も移寓していますから、そこから生玉の持明院や九之助橋の南にあった花月菴へはどれほどの道程があったのでしょうか。
 これは竹田と木米の出会いですが、文政6年5月、竹田は初めて京都鴨川畔の青木木米を訪ねています。木米は鴨川の水を汲み、福井榕亭自家製の茶を入れてもてなします。竹田はこれをよろこんで詩をつくり、絵を画いて贈り、以来親交を重ねていきます。木崎好尚先生の「大風流田能村竹田」の日譜には5月11日となっています。竹田はその日また山陽とも会っています。ところがこの竹田の日記によりますと11日の朝、春琴と綿文と共に山陽を訪ねて酒を飲み、夜は月峰上人のところで泊り、翌12日に菊澗堂で絵を画き、晩に二軒茶屋で木米と会っていますから、11日に木米を訪ねた翌日にその記念の絵を月峰上人の画室菊澗堂で画かれたことが推定できます。(その翌日の5月13日に竹田は双林寺門前南側に移寓している)
 木米から6月25日、手造急須と新白折茶を贈られたことも記されています。
 また、木米の染付の盧同七碗(七句茶碗)、竹田のために造った碗筒入りのものには「文政六年・・・・九月二十七日、五十七老陶工八十八」と書かれています。この時期、木米と竹田の親密さをうかがい知ることができます。
 文政6年は鶴翁42才、竹田47才、木米57才の時であります。

 かつて竹田の人気は木米などと共にきわめて高く、竹田54才の作「亦復一楽帖」は、竹田が大坂の医者松本酔古のために描いた山水、人物、花などの画帖で、一つの絵ごとに賛があり、末の句をすべて亦復一楽という言葉で結んであります。この画帖の跋(あとがき)を山陽に依頼したところ山陽が一見してとても気に入って横取りしてしまう。竹田は山陽のその愛玩をみて三枚の絵を加えて十三帖にして、ついに山陽のものとなります。山陽は旅行の時にも持ち歩くほどでしたが、旅先きで山陽が倒れたとき、美濃の門人、村瀬藤城の看病で一命をとりとめる。そのお礼に山陽は命の次に大切にしていたこの画帖を村瀬藤城に贈ります。
 大正の初年に村瀬家の子孫から田近竹邨が譲りうけています。(田近竹邨は一楽書き五十幅で亦復一楽帖を入手したといわれている)田近竹邨は田能村直入の弟子です。
大正11年に58才で没し、その遺愛品の入札が大正12年に行われ、その時に9万3千円、やがて神戸家に移り、昭和2年の神戸挙一氏の遺品入札で13万9千百円、文人画の新記録値で落札され、松本松蔵氏の手に入ります。当時の大学卒の初任給が60円だったといいますから、実に2千3百人分の給料に相当します。やがて昭和24年に中村準策氏、寧楽美術館(現館長・中村準佑氏)に入り現在に至ります。(この帖の原型は縦24㎝、横13㎝の小版で画面が半分に折り込まれ、開閉のたびに折目がいたむので保存上これを縦26㎝、横27㎝の大版の帖に改装された)金額で竹田の絵の評価をするつもりはありませんが、それほど尊重されていたのであります。それぞれの歴史観や観る目によって異なると思いますが、作品の芸術性は国家的な判定ともいうべき重要文化財、あるいは重要美術品に多く指定されていることからしても、竹田が高く評価されるのは当然で、戦後に評価がかなり変ったとはいえ、言葉や文字で表現できませんが、竹田の人格、思想を尊敬する者は、見れば見るほど好きになってしまうのであります。
 竹田にしろ、木米にしろ、その晩年期に力作が多いのも交遊を通じて相乗作用ともいうべき力が大いに働いていると思うのです。
 とくに細字の行書、草書を書く時に絵筆のいちばん細い面相筆を使って書いていますが、それが独特の効果をあげています。亦復一楽帖の序文にしてもその代表的なものです。また、木米が花月菴鶴翁のために造りました赤色の細字で茶詩を書いたあのすばらしい煎茶茶碗(写真)をはじめ、木米得意の面相筆による鋭い筆づかいは、作品、箱書きもそうですが、竹田・木米の単に共通という言葉ではすまない趣の味わい、芸術性というものをしみじみと思います。
 それから、花月菴所蔵の竹田が画いた賣茶翁の像資料③には「己丑・・(文政十二年)六月五・・・、竹田生謹写」とあります。竹田の得意の作らしく数本伝えられております。
 中国の文人が画をつくるに、得意の作は二度作ることが、しばしばあります。例えば、李成の寒林、范寛の雪山などがそうですが、日本の文人たちも、それに習ったのでしょうか、木米の兎道朝潡図や竹田の賣茶翁像、大雅・蕪村の十便十宜帖、竹田の亦復一楽帖もまたしかりであります。これら同じものが何点か書かれているというのも、得意作、傑作であるという証でもありましょうか。
 また花月菴所蔵の賣茶翁の遺品の中に寄興罐(写真)と銘のある湯沸しがあります。宝暦13年(1763)その死に臨んで賣茶翁は、この寄興罐を池大雅に贈っています。その箱書き(写真)を聞中禅師が記し、箱の蓋の寄興缶の三字(写真)は、池大雅が書いたものだと月峰上人が書き、また、この寄興缶が池大雅の旧蔵のものだと八木巽所が 記しています。(写真) 箱の横二面(写真) (写真)にわたって、これは賣茶翁より池大雅へ贈られ、更に真山氏へ移ったということの伝来を、田能村竹田が文政・・12年6月・・・・、そのてん末を書いています。
 賣茶翁像も寄興缶の箱書きも竹田が文政12年6月、ちょうど今から158年前に大坂・紀国橋の寓居にいた頃に書かれたものであります。
 竹田が鶴翁に書いて贈った「雨晴嫩緑満庭時」資料④で始まる詩の扇面、これには「老画師」という印が押されています。この印は内藤盧峰(方盧・名は弘)から竹田に贈られたもので天保4年以後の作品に使われています。
 その詩の後に、竹田は鶴翁に尊敬と親しみをこめて、花月茶友政・・・と書いています。 というのは、「詩をどうぞして下さい」という意味です。
 つまり、文政6年3月27日の出会い以来、田能村竹田と花月菴鶴翁とのまじわりが十年以上も続いていたことが、このような花月菴伝来所蔵の竹田の作品などから知ることができるのです。まだまだこの竹田の日記から読みとることは、いくらでもありますが、日記や手紙は個人的事情によるものでありますから、その人の環境がよほどわからないとなかなかむつかしいものです。
 木崎好尚先生は、竹田のお茶・お花・お香に関する趣味性の発展を日次的に表明する資料が欠けていることを指摘されていますが、その欠けた部分の一端がこの日記からも、ととのえ補うことができると思います。
 この資料は大分県竹田市立歴史資料館に出品展示されたものであります。(大分県立芸術会館蔵)ケースの中の開かれた頁には、このような記述が見られたかどうかわかりません。その日記が小さな写真ですが全頁に及んで目録にのっていたからこそ、こうして花月菴とのかかわりを発見することができたのであります。まだ活字にもなっていない部分、いうならば埋もれていた思いがけない資料によって、一つの歴史の確認ができたのです。
 この田能村竹田自筆日記残本一冊、文政6年3月27日の漢文で書かれた原文三行のもつ意味、田能村竹田と花月菴鶴翁との出会いの発見が今後に大きな意義をもつ研究の課題になると思うのであります。

(昭和62年6月20日・大阪郵便貯金会館にて講演)

*花月菴鶴翁は文政6年、田能村竹田と知りあったころは、まだ田中毛孔とか、三種亭という号であったと思います。文政7年より以後にやがて鶴翁と名のることになります。

*花月菴鶴翁、姓は田中、名は元長、菊井館と号す、黄檗聞中禅師の門に入り禅を学び毛孔と号す、又香川景樹に和歌を学び、名を賀寿と呼ぶ。嘉永元年、戊申8月22日没す。(1782~1848)
*竹田の日記中の文字は原文のものをなるべく使いました。例えば大、大流芳、湾、月亭、(頃)など……。
 

資料①「屠赤瑣瑣録とせきささろく

 「屠赤瑣瑣録」は、己(屠維とい)丑(赤奮若せきふんじやく)の歳、文政12年に、四方の逸事・見聞を録した故紙、紙背に書したものを整理してまとめた全六巻でこの書名がつけられた。自序文は天保元年2月に書かれているが、追補には天保2年の記事もある。その巻四の中に文政12年に花月菴主人(鶴翁)に聞いたことを記している。

 花月菴主人云ふ、当時、高游外翁に随侍せし人の、世に生残りたるは、聞中和尚一人 なり、和尚、京北一乗寺村の桂林庵に住す、今茲ことし己丑きちゆう(文政十二年)に年九十一歳とぞ。
 菴主又云ふ、三條白河橋の側に、真山六兵衛といふ人ありて、書畫を大雅翁に学び、茶を高游外翁に学ぶ、游外其号を命じて無隠といひ、大典禅師其室に命じて慎獨といひ、池翁其名を命じて大名と呼ぶといふ。 

 

資料②  文政十一年刊・築山庭造伝後編=籬島軒秋里園述

 花月菴は東横堀の西岸の高楼なり、淀川の支流は居ながら結ぶ、眺望の所は高津の台なり、生玉の森をかすみに浮び南には瓦屋橋を帯に、庭中は又西湖の柳、宮城野の萩、枝をまじへ、神潜石、灵報れいほう石を置きて、煎茶の玉川庭の全なる庭格を備へ、庵内には陸羽、盧同の肖像に賣茶翁の石像を安置し、毎月十六日は賣茶忌をつとめ、諸方の雅人自ら集り風流を営むに、主人ひねもす茶を煎じ給ふこと月並に怠ることなし、又三月六日陸羽忌を行ひ、としの新製、口を切って翁にこれをつとめざるうちは主人をはじめ、としの新製喫することをいましむ、煎茶の一風を起すの一人也

 

資料③  田能村竹田 画賛 高遊外翁像(写真) (原文漢文)

 蕉中師撰、賣茶翁傳に曰く、賣茶翁は肥前蓮池の人なり。姓は柴山氏、年十一にして出家し、元昭げんしやうと名づけ、月海と號す。龍津りうしん化霖けりんを師とす。りんは黄檗獨湛どくたんを師とす。
 翁少にして岐嶷きぎよく、稠人と比せず。嘗て師に従って黄檗にいたる、一日たん召して方丈 に至らしめ、賜ふにを以てす、蓋し其頴異を知ればなり、翁益々孳々ししとして自ら勉 む。二十二歳に及び、たまたま痢を患ひ困惙こんてつし、自ら處するあたはず、是に於て奮然と して遊方参詢の志あり。病ひ未だ癒えざるに、腰包頂笠、萬里して奥に至り、萬壽の月耕にまみえ、挂塔かた歳を経、晨夜に精励す。
 既にして遍く済洞耆宿ぎしゆくの門に遊び、又、湛堂律師に依り毘尼の学を習す。域は孤単居止きよし、東西を恒にせず、身に蓄ふる所なく、壹に斯道を以て任となす。
 築の雷山高さ二十里、翁嘗てその頂に いただき 棲止し、麨屑せうせつを飯し水を飲み、浴に溪に下り、 以て一夏を過ぐ。その精苦、類ねおほむ かくの如し。蓋し造詣する所ありて翁自ら足れりと せず、居恒きよこうふて曰く、古へいにし 世奇首座しゆそ、龍門の分座を辞するや、曰く是れ猶ほ金針の眼を刺すがごとく、毫髪もたがへば、晴則ち破る、しかず生々学地に居して自ら煉らんには、と、予つねに此を以て自ら警めいまし 、おもへらく、苟もいやし く一挙頭の以て普くあまね 物機に應ずるに足ることあらば、出でて人のためにして可なり、それ域は然らずんば、両婆の学解を脩飾し、顔をげて宗匠と稱せんは吾が恥とする所なりと。乃ち肥後に還り、霖に龍津に侍し、因て寺事を監する事十有四載、霖歿して法弟大潮を擧げて之に主たらしめ、遂に去って京にゆき、始めて其樂託らくたくの姓を肆に ほしいまま することを得たり。
 又、自らいふ、釋氏の世に處する、命の正邪は心なり、あとあらざるなり、それ僧伽そうきやの徳を誇張して人の信施しんぜを労するは、予自ら善しとする者の志に非ざるなりと。
 乃ち始めて茶を賣りて生を為す。亭に名づくるに通仙を以てし、洛の表にひやう 占居す。かの大佛燕子の池、東福紅葉の間、及び西山糺林の佳勝、皆時に出でて、之に舗する所なり。則ちその茶具をかごにし、泥爐瓦瓶、注ぐに清洌の水を以てして、烟 けむり冉々としてがる。乃ち鮮芳焙煮の(上必 下土 右欠)なる、飲む者、と稱して筒中の錢以て飢を樂しむに足る。居ることいくばくもなくして賣茶翁の名海内かいだいに喧し。肥国の法、彊をきよう 出づる者は、必ず券を以てす、而して釋氏の四方に雲游うんゆうするものと雖もいえど  、十年必ず還りて以て之を更め命ず、翁且つ七十た国に還る、則ち乞ふて自ら僧をめ、名を肥人の宦して京に在る者に隷して、以て十年の限を免れんことを欲す。国もとより翁の人となりを信ずるや之を許す。
 ここに於て自らこうを姓とし遊外を號とす、笑って人に語って曰く、我れ貧にして以てにくなく、老ひて以てさいなく、葛巾野服、賣茶の生、適するあり、また飄々然として去って京にゆく。則ち海内この遊外居士を稱説せざるはなし。前後贈るに詩若くは倭歌を以てするもの亡慮百數、皆翁の風流をいふ、振古未だあらざる所なり。然れども翁の志、 こころざし 茶にあらずして茶を名とするものなり、その居綿密の行ひ人かへりみ ず。晩に岡崎に居て老を養ひ、乃ち茶具を取りて之を焼く、その語集中に見ゆ。是に於て門をぢ客を謝し、まさに身を終らんとす。今茲ことし宝暦癸未、翁年八十九、尚ほ羔な きを得るといふ。
 己丑・・(文政十二年)六月五日・・・・、竹田生謹んで写し併せて書し、兼て高翁自題の韻に次して録を附し以て賛に代ふ。曰く

茶は禅に在るか禅は茶に在るか。撃竹拈華げきちくねんげ禅ならざるはなし。何すれぞ労動すの老漢。東奔西走して到頭に煎す。跡をのがれて忮せず又求めず。残生寄せて瓦爐がろの辺にあり。溪藤いささか寓す私淑の意。問ふことなか老漢ろうかん面孔鬚めんこうしゆしかるやしからざるやを。

 

資料④「雨晴嫩緑満庭時」

   雨 晴 嫩 緑 満 庭 時
   樓 外 桐 花 紫 着 枝
   午 景 方 長 猶 未 熟
   到 他 新 茗 上 瓶 期

花 月 茶 友 政
 竹 田 生 憲

 

あとがき

 大分県立芸術会館所蔵の竹田の日記に花月菴とのかかわりの部分を見出しましたのが今年の2月初旬でした。香坡家元様にご報告いたしましたところ、支部長会議の折に発表するようにとおすすめ頂き、6月20日、大阪郵便貯金会館において機会を与えて頂きました。菲才をかえりみず、汗顔のきわみでありましたが、またその発表をぜひ小文にまとめよとのことで、当日ご報告いたしましたことを要約いたしました。
 煎茶を通じて文人たちの思想や、生活にあこがれて花月菴先代家元・青坡先生にお 教え頂いたことからはじまって、春汀先生や長老の方々、同門の先輩に学び、こうして流祖や先人たちの出会いを知ることができてまことにうれしい ・・・・・・。
 皆様のご教正を仰ぐ次第であります。

酒井 慶治

 

参考資料 売茶翁茶器図(石居版)

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