煎茶 花月菴会

花月菴の歴史

3.花月菴一窓(三代) 弘化二(1846)年~大正十一(1922)年

一窓は、初代鶴翁の孫として弘化二(1845)年に次男として誕生。
字は広貞、通称楢次郎。後に隠居して新吾と改め、親交の厚かった鳥尾子爵の命名により、晩年は「一窓」と号した。後述の明治天皇への献茶と茶の同好会である「十八会」の煎茶指南となったことにより、煎茶花月菴流が躍進する大きな原動力となった。

楢次郎は父得翁の後を受け家業の質屋を継いでいたが、商売は番頭に任せ、もっぱら祖父鶴翁の残した煎茶道のことに苦心、研究を怠らず、その名声は早くから高かった。また、若くして古美術鑑賞に秀で、鑑定家として世に通っていただけではなく、手先も器用で、専門の陶工に劣らぬ技法を習得し、自ら茶器を作るほどであった。

明治十(1877)年二月二十六日、明治天皇は京都及び大和地方御巡幸のみぎり、大阪府庁内で行われた京都・大阪間の鉄道開通式に御臨席になり、一窓は大阪府知事渡辺昇の依頼により陛下の御前で献茶することとなった。
献茶式には有栖川宮親王殿下、三条実美太政大臣、木戸孝允内閣顧問など政府高官も陪席した。当時、無位無官の者が天皇の御前に出ることは破格のことであった。一窓は茶具一式を新調。身に燕尾服を着用し、花月菴流煎茶作法により献茶の儀を奉仕した。また明治二十(1887)年二月十五日には、明治天皇が大阪に御行幸の際、一窓が中国の珍木「吉利珠樹」を献上したことにより、同年十月、宮内省から白絹一匹が下賜された。

明治天皇への献茶の図
関係者による寄せ書き

一窓の名声を高めたもう一つの出来事は、茶の同好会「十八会」の指南役となったことである。「十八会」は、明治三十五(1902)年二月、大阪財界などの有力者によって設立された。毎月十八日に開かれたため、この名がある。煎茶指南は花月菴一窓、抹茶は狩野宗朴があたった。
朝日新聞の創業者村山竜平、十五代住友吉左衛門、初代大阪市長の田村太兵衛など約二十名が参加した。

財界人のみならず、一窓は松方正義侯爵(首相)、土方久元伯爵(宮内大臣)鳥尾小弥太子爵(枢密顧問官)などとも親交があり、東京においても花月菴門人がひろがっていった。読売新聞によれば、大正末年期には毎年の春、上野で秀月社主催で花月菴茶会が開かれたことを伝えている。

  • 読売新聞大正14(1925)年3月27日
  • 読売新聞大正15(1926)年4月6日

大正十三(1924)年売茶翁生誕二百五十年にあたり、一窓は「売茶翁偈語」と「売茶翁茶器図」を出版する準備をしていが、大正十一(1922)年六月二日、七十八歳で亡くなった。

遺骨は京都西大谷に納めれた。西本願寺法主は一窓の法名を釈浄海とし、その投機偈を次のように記した。

花月菴主  事々即休
盈虚開落  吾家風流

遺言によって墓は作らず、この偈文を鳥尾小弥太子爵が揮毫したものを命日に祭り、香葉茶葉を供えるのを花月菴のならわしとしている。

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